アンミカさんの若い頃にはモデル時代がありパリコレクションに出演歴のあるモデルさんでした。
小さい時にモデルを意識するも、到底モデルを目指すプロポーションではありませんでした。
努力を重ねてモデルとなって、パリコレ出演を夢見て渡ったフランスでもオーディションさえ受けさせてもらえない現実がありながらも運も味方につけ、モデルとして開花していきました。
アンミカは若い頃にパリコレのモデル時代があった
1993年に20歳の頃にパリコレデビューしました。
パリコレモデルの凄さがイマイチわからん
パリコレはすごいこと
アンミカさん25歳頃の写真です。
25歳とは思えん顔つき‼
ベテラン感というかボス感があるな
綺麗な女性…
ザ・モデルね
アンミカさんは今では『林先生の初耳学』の「パリコレ学」の人気コーナーを持っていますが、モデルになるまでは平坦な道ではありませんでした。
アンミカが若い頃にモデルを目指したのは母親の病気がきっかけ
昔からかわいいね
小学校卒業後、大阪市立文の里中学に入学し、アンミカさんがモデルを目指したのは中学3年生の時でした。
アンミカさんが11歳の時に母親のガンが発覚し、中学生になると寝たきりの状態になってしまいました。
残念ながら母親は中学3年生の時に亡くなってしまいましたが、母親から「モデルになったらいいかも」と言われたことで、モデルになることを決意し、寝たきりとなってしまった母親が死んでしまう前にモデルになりたいと考えていました。
まだ、中学生なのに悲しいね
当時は身長が160㎝しかなく、体型も陸上をやっていたためにモデル体型ではなく、筋肉で身体が大きく見えてしまい、コンプレックスの塊でしたが、努力することでモデルになることをあきらめませんでした。
中3で不合格だったモデル事務所に執念で所属
中学生3年生でとあるモデル事務所に書類を5回も送って、全て送り返されました。
その事務所に直接電話し、「写真写りが悪いので、実物を見た方が得だと思います。」と堂々の宣言をして面接のアポイントを取り付け社長に会うも不合格。
中学3年生とは思えない行動力でモデル事務所に応募しまくりました。ここまででも凄いのですが、ここから執念ともいえる行動力で事務所へ所属することになります。
でも落ちたのか
ダサいな
頑張ってるのにそんなこと言うなよ
面接した事務所の社長からは「また、大きくなったら遊びにおいで」と言われたことで、その言葉を間に受けて不合格なのに、毎週家から8駅もあったモデル事務所に自転車で通うようになり、次第にキャンセルの出た空いたレッスンに参加させてもらうことができ、いつの間にか所属することになっていました。
おそるべき行動力
それくらい負けん気がないとね
中学3年生でモデルを始めましたが、育ち盛りで体重も現在よりも重く、肌も色黒でモデルとしては全然でした。
アンミカは若い頃は父親にモデルを反対されたが高校卒業後にパリへ
高校は大阪府立住吉高校(偏差値65)に進学し、新聞配達の他にもパン屋でもアルバイトをしていました。
若い頃から本当に苦労人ね
高校でも陸上部だったようで、身長が中学時代より11㎝も伸びていましたがモデルとしては微妙な結果に終わりました。
ケガをしたことで陸上のトレーナーをしようとしていて高校でモデルはやめて就職した方がいいと促されていましたが、アンミカさんに火がつき高校卒業後にパリへ行こうと決心しました。
アンミカさんの父親はモデルになることに猛反対。
父親からは「モデルをやるなら家から出て、一流のモデルになるまでは家に戻ってくるな」と言われていたほど、厳しい父親で「モデル以外にも勉強して資格を取れ、取れたら連絡をしてきていい」と言われました。
人の役に立つ人間になることを教えてくれた優しさのある父親だったようで後に父親の手紙で運命が変わり、パリコレモデルデビューします。
フランスに行くことになりますが、パリに渡ってからは簡単ではありませんでした。
フランスに渡って母親の命日までに家に帰りたいと考えていたアンミカさんは半年でモデルとして一流と言われるためにはどうすれば良いかと考えた結果「パリコレ」となりました。
モデルをナメとるな
あんたモデルのこと知らんでしょ
フランスにはツテもなく電話番号を調べて、とにかく事務所にアタックしていったそうです。
20社中3社と面接の約束を取り付けるも門前払い
フランスでのアンミカさんは電話でモデル事務所に自分を売り込むため20社に電話しまくりましたが、3社しか話を聞いてもらえませんでした。
ところが、「アジア人を見てもいいと話していた」3社も実際に行ってみると担当者にも会えず、門前払いをくらってしまったようです。
そこで受付の人に「どうして会ってもくれないの?」と疑問をぶつけました。
「あなたが着ている服は、自分を良く見せていない」。
つまり自分のマネキンとしての体型を理解して、洋服をより良く見せて、着ている本人もカッコ良く見えるのがモデル。そんなセンスを持ち合わせていないモデルは要らない
exciteニュースより引用
ファッションセンスとモデルとしてのプロ意識をダメ出しされてしまいまいました。
若い頃は辛いことの連続だ
本場フランスのファッションモデルのレベルの高さにボコボコにされたアンミカさんですが、諦めるなんて選択肢はなく、絶対に認められるまで「やってやる」気持ちでした。
ーモデルにとってパリコレは夢の舞台だと思うのですが、とてもシビアな世界だと聞いています。
パリにいた頃を思い出すと、今でも悔しさが込み上げてくるくらい! 辛い経験でいっぱいです。
オーディション会場の扉を開けた瞬間に「merci oba!メルシー・オバ!(ありがとう。もういいよ)」と帰されることがほとんど。
100個ショーがあったら、アジア人を必要とするショーは2個しか無いと言われた時代。
オーディション担当の方を訪ねて事務所にいったのに、受付の女の人に「あなたは会う必要はないわ。あなたの容姿と雰囲気はいらないから」と断られることもありました。
当時、パリのシャンゼリゼ通りには、泣きながら歩いているモデルの女のコたちがたくさんいました。私と同じように断られたのでしょうね..。今でもテレビでシャンゼリゼ通りの映像を見ると、その頃の辛い思い出が蘇ってきて、胃がキュっとなります。
ブランドのイメージに合えば即、合格。
その場でコレクション会場の入館証を渡される子もいました。そんな勢いで決まったかと思えば、「ごめん! 今朝のオーディションで、あなたより洋服が似合う子が見つかったの。だから、今日、着てもらう洋服ないんだよね」と、当日会場で断られることも。
NEWYORKER MAGAZINEより引用
めちゃくちゃに言われて多くの挫折を味わっていますが、ここを乗り越えたアンミカさん強いですね。
「あなたセンスがないわ。自分の着ているものが分かっていない」と言われた1年後にパリコレに出演することになります。
おぉ、見返したな
アンミカをパリコレに導いたのは父親の手紙と京都でのファッションショー
アンミカ前からめっちゃ好きやけどはじめて若い頃の写真みた……えぐ……美しいがすぎる……………すき……… pic.twitter.com/wZU3yBMIV3
— 欲望のままに生きたい (@af_126_ro) July 31, 2019
フランスでモデルとしてのプライドをズタズタにされたアンミカさんは日本(大阪)に帰国して、アルバイトをしながらファッションの猛勉強をしました。
まだ仮所属だった事務所のマネージャーから、京都でのファッションショーに誘われましたが、素人モデルのショーと聞き、気が進みませんでした。
大阪から交通費もかかるしな
当日はアルバイトをしていてお昼ごはんを食べに行ったところ財布を無くしました。
しかし、お金を借りたことで自宅に戻って貯金箱の中を確認すると父親の手紙が入っていました。
どういうこと
その手紙には
- チャンスは突然来る
- 常にアンテナを張っておきなさい
といったことが書かれていて貯金箱の中も、再度パリに行くためのお金が貯まっていたため急転直下、京都のファッションショーに行くことことに決めました。
マネージャーに行くことを伝え、アルバイト終わりで待ち合わせて京都へ向かいました。
そこで有名なドイツ人カメラマンのノーバート・ショルナー氏に声を掛けられモデルとしての撮影に誘われ、その撮影がロンドン雑誌の『i-D』に掲載されヨーロッパでも広まって有名になりました。
その時に出会ったデザイナーがアンミカさんを起用し続けてくれた結果、そのデザイナーさんのパリコレが決まり、アンミカさんのパリコレ出演が決まりました。
出演したパリコレでは、パリで落とされた事務所の関係者もいたため、声をかけて再度オーディションをしてもらい、所属にまで至ったようです。
スゲー女
モデルさんはそれくらいガッツがないとな
アンミカが昔モデルを目指すきっかけとなった母と極貧生活の生い立ち
今はセレブとしてイメージのあるアンミカさんですが、昔は厳しい生い立ちと極貧生活を過ごしてきました。
アンミカさんは韓国の済州島出身です。
アンミカさんはキリスト教信者の両親の元に5人兄弟の3番目で生まれ、日本で育っています。
教会の手伝いで両親は日本へ渡ったそうでアンミカさんも4歳の時に韓国から日本への家族とともへ渡ってきたそうです
不法入国の噂があるぞ!!
いかんぞ!!
日本では大阪の生野区に移り住みましたが引っ越しは10回じゃきかないほど経験したそうです。
家族7人で4畳一間で暮らしていました。他人他家の一室を間借りしていたために家に入ると、よそ様の家の中を通って家族のいる2階に帰っていました。
両親は日本語に苦労し、仕事がうまくいかず、貧乏生活を強いられてしまいました。
昔の貧乏エピソードや辛い思い出
(アンミカは写真右の子)
左じゃないんか!?
- 家族で夜中に市場へ行って、廃棄された果物を持ち帰って、食べていた
- スイカの種を取っておいて、砂糖をまぶして飴のように舐めていた
- 学校の給食費が払えなかった
- 家のすきま風がひどく、布団も薄く寒くて眠れなかった
- 寒い時は外に出て、焚火をしていた
- 毛糸は何回も再利用し、服を作っていた
- 新聞紙を拾ってきて、防寒具として使っていた
パリコレ学でも講師を務めているアンミカさんですが、写真からも幼少期はモデルになれる体型ではありませんでした。
自分の顔や体型がコンプレックスでしたし、3歳の時ダンボール工場の階段から落ちたことで顔に大怪我を負ってしまいました。
後遺症が唇に残ってしまい、顔を他人に見られるのが嫌になっていました。
貧しい長屋で暮らし、モジモジした少女で、ケガで引っ込み思案な性格が強くなってしまいました。
女の子がの顔に傷つくのは可哀想
友達からは「笑うと口が黒くて怖い」と言われて傷ついていました。
傷つくことは言っちゃいかんぞ
それでも母親はいつもアンミカさんの良いところを褒めてくれました。
良いお母さん
母親が美容のお仕事を始め、美容のことをアンミカさんに教えてくれました。
立ち振る舞いが大切で、姿勢や口角についてアドバイスをもらい
- 姿勢を良くする
- 口角を上げる
- 相手にわかりやすくゆっくり話す
- ちゃんと相手の目を見て話す
母親から教わり教えを守っていました。そのおかげで自信もつき小学生に上がる頃には元気な少女になっていました。
アンミカさんは5人兄弟の中で背も高くなく、太っていたようで、近所の人からは「この子は兄弟じゃない」なんてひどいことを言われていました。
酷いことを言うね
母親からは「手足の長さ」を褒められて、将来はモデルになるんだという思いが芽生えました。
母親が初めてくれた誕生日プレゼント『エチケット入門』という本をもらったことを鮮明に覚えています。とても大切な本でしたが失くしてしまい、お姉さんが同じ本を探してプレゼントしてくれました。
中学時代には家が燃え父が失業し母親が他界
テレ東プラスより画像引用
両親の経営していたラーメン屋が火事になったり実家が火事で住めなくなったり、母親が病に倒れ、父親が居酒屋を開業しましたが、失敗しました。
アンミカさんは家計を助けるため、新聞配達のアルバイトをしていました。
こんな若い頃に…
さすがに不幸すぎるだろ…
部活は陸上部に所属していました。色黒で足が早かったため、「カールルイ子」とあだ名がついていました。
だっさいあだ名だな
とても優しかった母親は貧乏だった家庭のため、美容部員のお仕事の他にも生命保険の営業やラーメン屋などの職に就いたものの、過労がたたったのか母親の病気は悪くなる一方でした。
そして大好きな母親のためにモデルになることを決意しました。
その後中学3年生にして、モデルの事務所に売り込む生活が始まります。
20歳でパリコレに出演しましたが、父親もその8年後に亡くなってしまいました。
現在のアンミカさんはアメリカ人男性と結婚し総額2億円とも言われた結婚式を挙げたり、セレブとして都内の高級マンションに最上階芸能人を招いてパーティーもしているようです。
話すコツも母親から教わり、「テレビショッピングの女王」と言われるようになりビジネスも軌道に乗っています。
アンミカの若い頃のまとめ
アンミカさんは昔は給食費も払えないくらい貧乏で、ルックスも自信がありませんでしたが、母親からポジティブな教育を受けてモデルを目指すことを決めました。
中学生でモデル事務所に応募して不合格ながらも通い詰めて所属にこぎつけ、高校卒業後はパリに行きモデル事務所から門前払いを食らう日々。
日本に帰国してからたまたま誘われて行ったファッションショーで出会ったデザイナーと仕事をしていくうちに、デザイナーさんの縁でパリコレ出演が決まりました。
人生何が起きるかわからんな
コンプレックスしかなかったアンミカさんががパリコレに出演できたのは性格に勝因がありました。負けず嫌いで、粘り強い性格。人から、否定をされるとやる気が出てしまうようです。
アンミカさんの成功の秘訣は若い頃からの負けん気の強さだったかもしれません。
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