ムロツヨシさんはシビアな幼少期を過ごしていました。
父親の再婚で突然妹、弟ができたりと明るいキャラクターからは想像できない、悲しい家庭環境で育ってきました。
親のゴタゴタや家庭環境を言い訳せずに、役者を目指すも中々結果が出ずに苦労しました。
今回はムロツヨシさんの生い立ち~役者として売れるまでをまとめましたのでご覧ください。
ムロは喜劇役者を名乗ってるな
結構な辛い幼少期だったみたいね
俳優・ムロツヨシの生い立ちまとめ|昔の記憶は両親の怒号とケンカ
ムロツヨシさんは神奈川県横浜市の生まれで5つ上の姉がいます。
父親の仕事は大工だったそうですが、温かい家族とは無縁の生活でした。
ムロツヨシさんは幼いながらに両親がケンカをしている記憶があるそうです。
両親のケンカは4歳の時の記憶で、怒鳴り声が止むのを布団の中で身を潜めていたそうです。
可哀想に
トラウマになっとるな
祖母が止めに入ったり、母がトランクを持って玄関を出る姿を覚えているそうです。
母親とはそれ以来会っておらず、写真も処分されてなかったため顔も全く覚えておらず、幼き日の赤い口紅の色だけ記憶にあるそうです。抱っこされた時の記憶でしょうか…。
悲しい記憶…
両親は離婚し父親は他の女性の元へ
ムロツヨシさんが4歳の時に両親は離婚し、父親が親権を持ちましたがムロさんと姉を親戚に預けて父親はどこかへ行ってしまい、両親の離婚後は親戚の家で生活しておじいちゃんと、おばあちゃんと一緒に住んでいました。
親戚は魚屋で仕事が忙しく、祖母が面倒をみてくれたようです。
おい!!父親はどこ行った!?
父親は別の女性のところに行きそこには子供が3人いたそうです。
夏休みや長期休みになると父親の所へ遊びに行って可愛がって貰っていたそです。
優しい親戚で良かった
何しとる!父親失格だぞ!!
父は別の女性と再婚し弟・妹を紹介されるもまた離婚
小学校5年生の時には父親に呼ばれ、また新しい女性と結婚することを告げられました。
横にいた子供が弟と妹になると紹介されて戸惑ったそうです。
そりゃ戸惑うよね…
父親の結婚後の生活はアパートの一室に父親の家族。
その隣室に祖父母と姉とムロツヨシさんが住むことになりました。
しかし数年後に父親は離婚し、弟妹とも別れることになったそうです。
なんか想像できたわ!!
借金トラブルが原因で父親とは疎遠に
祖母は隣で暮らす父親に嫌気が差し、父親と険悪になりました。
親戚も父親の借金の保証人になったことによる金銭トラブルで関係が悪くなりました。
そういう人はお金にもだらしないのね
ムロツヨシさんは今まで育ててくれた恩もあり親戚側についたそうです。
そうだなそれがいい
21歳で家を出てからは父親と会っていないそうです。姉も嫌気がさして出て行ったそうです。
ムロツヨシさんは父親のことを、これっぽっちも恨んではおらず、また父親の子供に生まれ変わっても良いとおっしゃっていました。
父親を甘やかすな!!
辛い生い立ちがあっても微塵も出さずに楽しい雰囲気にしてくれるムロツヨシ最高よ
この生い立ちがあったことで、喜劇役者になろうと思ったそうです。
ムロツヨシの学生時代|東京理科大学を3週間で中退
学生時代に親や生い立ちの話をすると「不幸自慢」と言われたそうです。
まあな。しちゃいがちだけど、あんまよくないな
横浜市立神大寺(かんだいじ)小学校出身。中学は横浜市立六角橋中学へ入学。
楽だと聞いたバドミントン部に入部し、遊び感覚でバドミントンをやって楽しんでいたそうで、中2の時に初めて彼女ができたそうです。
文化祭でバンドのボーカルをやることになったのですが、「BOOWY」を熱唱しマイクスタンドの持ち方が気持ち悪いという理由で付き合って1週間で振られたそうです。
面白いフラれ方だ
高校は鶴見高校!遊びまくっていた高校時代
ムロツヨシさんは鶴見高校出身で偏差値は58。
結構勉強できるじゃねーか
高校ではレギュラーになれると聞いてハンドボール部に入部しました。しかし、ハンドボール部にいながら、それ以上に熱中していたスポーツはサッカー。
高校時代にちょうどJリーグが開幕したこともあった同級生たちとサッカーに熱中していたそうで、勉強は全くしていませんでした。
当時イケメンと言われ高校2年、3年と「ミスター鶴見」に選ばれたそうです。
イケメンだったの?
高校時代は全く勉強していませんでしたが、社会に出るにあたって良い大学だけは出ておいた方が良いと思ったそうです。
その結果、河合塾の横浜校へ通い一年間の浪人での猛勉強の末に東京理科大学へ入学しました。
やるじゃねーか
大学入学直後に芝居に感化され役者を志望|祖母は号泣
東京理科大学の理学部数学科(偏差値60)へ入学するも3週間で行かなくなりました。
同級生たちが目標が明確でやりたいことがちゃんとしている姿を見て、自分について考えている時に好きだった女優の深津絵里さんや主演の段田安則さん、仙道敦子さんが出演していた『陽だまりの樹』の舞台を見て、演じる側に立ちたいと思ったそうです。
その次の日から大学へは行かず、大学の見える喫茶店で大学を眺めながら、辞めていいのかを自問自答したこともあったりと数ヶ月間悩んだそうです。
難しい人生の決断だな
大学の退学を決断し、祖母に辞めたいと告げると「お前には郵便局員になって欲しかった」と泣かれ、辞めないでほしいと懇願されました。
おばあちゃんの気持ちが痛いほどわかる
その時、実は父親も役者の道に進みかけたことを聞かされました。父親はすぐに諦めたそうです。
ムロは父親を超えた
ムロツヨシの若い頃は尖っていた|本名から芸名へ
大学を辞めてからは俳優の養成に入りました。
19歳で役者を志してから、書類審査で落とされる日々が始まります。
元々「ムロツヨシ」は芸名で本名が珍しい名字のため、本名で活動していると有名になった時に実の母親に家族、子供もいて迷惑がかかると考え、21歳の時に今の「ムロツヨシ」という芸名にしたそうです。
しかしそこから十数年、無名時代を過ごしました。すぐ有名になれる思っていたと話していました。
おそるべき、うぬぼれだ
根拠のない自信は大切
ムロツヨシさんは20年ほど前の無名時代には芝居する場所がなく、脚本家も共演者もなく、自分で脚本を書いて一人舞台をしていました。
喜劇を書いたつもりが、客席は冷え切って、客からは可哀想な目でみられたようです。
客が見てくれただけ良いじゃないか
その後2、3年は舞台も映画もドラマも見られなかったようです。
役者仲間と劇団「ヤニーズ」を立ち上げるも「ムロは熱すぎてオレたちとは違う」と言われてしまい、追い出されます。
どうやら周りの役者仲間とは芝居に対する温度差があったようです。
「プロとしてやっていきたいムロツヨシさんと、演劇が好きな役者仲間」
当時のムロツヨシさんは熱くもあり尖っていたそうで、芝居に対する気持ちにズレが生じてしまいました。
当時はお金が苦しく、生活をしていくためにアルバイトをしていました。
横浜の横浜市中央卸市場でマグロを運ぶバイトで、朝方の4時くらいお昼ごろまで時給1000円ほどでバイトをして、その後に役者活動をしていたそうです。
それを3年くらいやって、眼鏡屋、お好み焼き屋、設営などの肉体労働のアルバイトで食いつなぎながら、舞台活動を続けていきました。
色々と下積みの苦労してるね
奇策!「ムロツヨシです」戦法で映画出演へ
ムロツヨシさんは何年やっても芽が出ずに心が折れかけていました。
26歳の時、ここまでやってきた俳優人生を振り返った時、目の前にある予定はバイトのシフトだけ…。
お芝居ができる予定もないことで、自分の才能の無さに一度は心が折れかけますが、やっぱり役者として食べていきたい気持ちが強く、いつか良い方向に傾く気がしたため、絶対に諦められなかったそうです。
売れるかわかんないのに、よく続けられるな。尊敬するわ
続けることは大切ね
升毅(ますたけし)さんの主催する「劇団MOTHER」に在籍していたムロツヨシさんが20代も後半になった頃、演劇をしている劇場に本広克行(踊る大捜査線シリーズの監督)さんが見に来てくれていて、その後の飲み会で監督の席に行って自分のことをアピールするために、ことあるごとに「ムロツヨシです」と名前をひたすら言う作戦が功を奏して、オーディションを受けることなく、指名がきたため映画出演が決まりました。
絶対ヤバイ奴じゃん。よくおっけーしたな
すごい営業力。なりふり構ってられなかったのね
その作品が『サマータイムマシン・ブルース』本広克行監督からは「お前の野心は綺麗だ。そこまで言うなら使ってやる」と言われ、いい役に抜擢されて精一杯取り組んだ結果、次回作以降につながる結果を出しました。
ムロツヨシの性格を見透かしていた本広克行監督
ところが、次の仕事がなく困っていたムロツヨシさんは再度、本広克行監督に次の作品をお願いしに行ったところ「考えておく」と言われたそうです。
ところが台本を渡された時、ムロさんがお願いに来る前から出演は決まっていたことをプロデューサーから伝えられたそうです。
監督からは「ムロが絶対『出してください!』って言いに来るからそれまで待て」と出演オファーを口止めされていたそうです。
ムロちゃん、見透かされてたな
その作品とは踊る大捜査線のスピンオフドラマでした。
ムロツヨシさんは段々と露出を増やしてきますが、まだまだご飯を食べられるレベルになるにはありませんでした。
ムロツヨシは小泉孝太郎にずっと御馳走になっている
ムロツヨシさんは複雑な生い立ちがあったことで、環境適応能力がすごく、人に取り入る特殊能力を身につけましたようです。
役者として食えない間は、先輩などによくご馳走して貰っていました。
その中でも『交渉人真下正義』の共演で知り合った小泉孝太郎さんとは仲が良くて、年下ですが、ご飯に行ってもお金を出したことはないそうです。
気に入ってもらう人柄は大切
28歳の頃に二人は知り合い、なんでも小泉孝太郎さんから毎回「ムロさん、ご馳走させて」というのがいつまにか10数年続いているらしく、一度も財布を開かせてくれないと、明かしていました。
いや、もうさすがに払えよ
何故か小泉元首相とも2人でご飯することに
仲の良さから小泉孝太郎さんのマンションに結構な頻度で転がり込んでいました。いつ来てもいいように合鍵も渡されていたほどの仲でした。
ムロツヨシさんが撮影で小泉孝太郎さんの実家の近くに行った時に挨拶に行くと、孝太郎さんはいないのに、元首相の小泉純一郎さんにご飯を誘われて、何故か小泉家のリビングで元首相と二人でご飯を食べたそうです(笑)
小泉元首相と…すごい
ムロツヨシさんは小泉家のお正月にも毎年のように親戚や家族に紛れて一緒に過ごしますし、お年玉ももらっていて、何やら結婚するまでもらえるようです。
ここまでくると才能だな…
ユースケの一言でバイトを辞め役者一本|『ごちそうさん』出演へ
俳優のユースケサンタマリアさんにもよくご飯に連れてもらっていて、焼肉を食べに行っていた時に、これから役者として本気になるために「バイトはやめなさい」と言われました。
ムロツヨシさんは30歳の誕生日の前日までバイトをして誕生日当日を境にバイトはキッパリと辞めたそうです。
でも当然食べていけるわけもなくて、小さい頃一緒に住んでいた従姉妹や同級生たちからお金を借りて生活費を工面していたそうです。
2005年頃からメディアに出始め、ちょい役が多かったムロツヨシさんですが2011年にテレビ東京系『勇者ヨシヒコと魔王の城』で顔が世に売れ始めて、決定打はNHKの朝ドラ『ごちそうさん』でした。
2013年9月~『ごちそうさん』出演後くらいからやっと役者としてご飯を食べられるようになったようです。
生活を助けてくれた友達も喜んでくれたそうで、お金は返さなくていいと言ってくれる友人もいるそうです。
ムロが37歳くらいの時か?結構長かったな
まとめ
ムロツヨシの生い立ちは…
- 4歳の時に両親が離婚
- 母親の顔を覚えていない
- 父親が親権を持つも親戚と祖母に育ててもらった
- 父親は再婚し異母弟と妹ができた
- 父親は再離婚し借金トラブルで親戚と関係が悪化
- 東京理科大へ進むも3週間で退学し役者へ
ムロツヨシさんは高校卒業後は一浪を経て東京理科大学へ入学するも、3週間で退学し役者の道へ。19歳から20代半ばまでオーディションに落ち続け、小劇団でお芝居とアルバイトの日々。
劇を見に来ていた、映画監督の本広克行さんへのアピールに成功し、役をもらい2005年に映画デビューするもその後は中々うまくいきませんでした。
それでもユースケ・サンタマリアさんのアドバイスで、30歳を機にバイトを辞め、生活費は借金でまかない、役者業を本気でこなしていき、ついにNHK朝ドラの『ごちそうさん』で有名になりました。
可哀想な生い立ちだが、自分で道を切り開いたのは凄いな
これからもみんなを笑顔にして欲しい
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