山口百恵さんには辛い過去があり、その生い立ちから滲み出る哀愁のやパワーで芸能界でトップを取れたのではないと感じています。
今回は山口百恵さんの生い立ちについてです。実の父親に悩まされたようで、韓国人の噂もでたりと山口百恵さんが芸能界でデビュー時代も交えてまとめました。
ヤバイ父親だったらしいな
山口百恵の生い立ちが壮絶だったのは医者の父親が原因|自叙伝『蒼い時』で告白
山口百恵さんは母子家庭で育ったと当初思われていましたが、実は愛人との間に生まれた子供だったと明かされています。
「私には父親はいない。私はあの人の存在を認めない」と引退直前の1980年9月に出版した『蒼い時』の中では自身の生い立ちを告白。
その中で父親を「あの人」と呼び、他人行儀な感じが伝わってきます。
山口百恵さんの父親には別の女性がいて、山口百恵さんの母親は愛人でした。つまりは本妻がちゃんといて不倫相手だったということです。当然ながら、父親を憎んでいたようです。
父は母の親に「責任を持ってきちんとします」と話したそうですが結局本妻と離婚することはなかったようです。
山口百恵の父親は医者だった
父親の名前は久保茂。職業は医者でした。
しかし、山口百恵さんの家族には甲斐性を見せなかったようで、父の正式な妻のことを「怖いおばさん」と評していました。
本妻にも子供がいました。おそらく医者という職業柄、それなりのくらしをしていたのではないでしょうか?
一方で山口百恵さんの家庭は貧乏で生活保護を受けていた時期もあり、母親は内職をしていたそうです。なので、実質は母子家庭と同じでしょう。父親が医者なのに貧乏って…やるせないですね。
山口百恵さんの父親は週末には顔を出しに来たとか。しかし経済的な支援はなかったようで。百恵さんは中学時代に新聞配達のアルバイトをしていました。
週末にしか顔を出さない父親に時山口百恵さんはどんな気持ちだったのでしょうか?子供って意外と賢いですから幼いながらに父親の行動には、引っ掛かっていた感情があったのではないかと想像します。
娘の山口百恵が有名になると父親が親権を主張し裁判沙汰
山口百恵さんの父親は娘が有名になると、娘の名を利用して事務所から借金をしたり、親権を取り戻そうと裁判を起こしたりしたそうです。
嫌気がさした山口百恵さんは父親には多額のお金を渡すことで、身を引いてもらったそうですね。このことに一切の後悔はないそうです。
絵に描いたような自分勝手な父親に思えてしまいますね。
父親が韓国人の噂は嘘
山口百恵さんの住んでいた横須賀市の実家近くにはコリアタウンがあり、そこから父親が在日の韓国人の噂がでたようです。韓国人説は引退後にもささやかれていましたが、韓国人説は事実ではなく、父は、日本人。山口百恵さんも日本人です。
デビュー当初に山口百恵さんは幼い頃に両親が別れ、父親はいないと答えさせられていたらしいですね。プロダクションは絶対ですね。父親の存在を隠していたことによって、逆に韓国人説が出たのかもしれません。
山口百恵の自叙伝『蒼い時』で生い立ちに言及し爆売れ
百恵は、この番組の直前、’80年9月に出版された自叙伝の中で、桜田淳子との友情を振り返って、次のように書いている。
「彼女と私。彼女がいなかったら、現在の私は存在し得なかっただろう。彼女が私の人生に関わった部分は、本当に大きい。
Twitterより引用
(山口百恵・著『蒼い時』)
引退直前同年9月に刊行された自叙伝『蒼い時』は、複雑な生い立ち、芸能人としての生活の裏面に加え、恋愛や三浦との初体験についても赤裸々につづられており、発売から1か月で100万部を超え、12月までに200万部を超える大ベストセラーになった。
同書の仕掛け人といえる残間里江子にも注目が集まった。写真撮影は立木義浩。引退後の翌年1981年に文庫化されている。
Wikipediaより引用
『蒼い時』は344万部を売り上げています。
山口百恵さんが芸能界で活躍し始め高校生になってすぐの頃、週刊誌が戸籍謄本を載せたことで、山口百恵さんは初めて自分が戸籍上「認知」であることを知ったみたいです。
自叙伝を読んだファンには生い立ちに共感するファンや自叙伝を読んで山口百恵さんのことを好きになる人がいる一方で、アンチを一定数生み出してしまったみたいです。
父親にされたことが事実だったとしても、「実の父に対して自分だけの思いを告白しているだけ」など厳しい意見もありました。
山口百恵は母や妹のため家族のための芸能界デビューではない
山口百恵さんの芸能界入りは家族のため、もっと言えばお金のためではないかと言われていますが、違うようです。
山口百恵さんの家族は母親の山口正子さんと5歳下の妹の淑恵さんです。
母親の正子さんは1989年に51歳の若さで逝去されています。
苦労を共にしてきたご家族で、百恵さんは中学1年生の時には新聞配達のアルバイトをこなしていたそうです。
父親の助けもなく、お金に苦しんでいた生い立ちを考えれば、芸能界入りしたのは当然お金のため、家計を助けるためだとファンは考えていました。それは悪いことではありませんしむしろ良いことです。
この憶測を山口百恵さんは『スター誕生!』で森昌子さんに憧れたことが理由だと否定しているようです。
ただ、家族に楽をさせてあげたい気持ちや母親の苦労をわかって感謝の気持ちが強かったことは事実でしょう。
山口百恵の生い立ちに共感!デビューから引退までの7年半で上り詰めたトップアイドルの道
さてここから、山口百恵さんの簡単なプロフィールとデビューから引退についてまとめています。
山口百恵のプロフィール|出身校など
- 名前:山口百恵(現在:三浦百恵)
- 生年月日:1959年1月17日(65歳)2024年時点
- 出身地:神奈川県
- 身長:158㎝
- 血液型:A型
- 学歴:日出女子学園高校
生まれは東京都渋谷区恵比寿です。幼少期を神奈川県横浜市で過ごし、横須賀市へひっこしました。小2からデビュー(中2の途中)まで6年間を横須賀市で過ごしました。横須賀の街が好きだそうです。
- 横須賀市立 鶴久保小学校
- 横須賀市立 不入斗(いりやまず)中学校 (転校)
- 私立 品川中学(現在:品川女子学院中等部)を卒業
- 日出女子学園高校(現在:目黒日本大学高校)を卒業
『スター誕生!』で阿久悠から酷評されながらのデビュー!期待もされず
デビューのきっかけは自ら応募した、1972年に当時萩本欽一さんが司会を務めていた『スター誕生!』にて、牧葉ゆみさんの『回転木馬』を歌唱し準優勝となりました。
ちなみにこの大会で優勝したのは韓国出身のシルビア・リーという方でした。
20社からのオファーを受け、ホリプロに所属することになりますが、ホリプロとしては本当は桜田淳子さんが欲しかったとのこと。
『スター誕生!』の審査員だった阿久悠氏からは「歌は諦めたほうがいいかも…」と言われたことで自信も崩れ、酷く傷ついたそうです。
阿久悠氏は森昌子さんや桜田淳子さんを超えることはないと思っていたそうです。『ひと夏の経験』を聞きその評価は変わったみたいですが、森昌子さん、桜田淳子さんの作詞には携わりましたが最後まで山口百恵さんの楽曲の作詞はなく1980年の引退を迎えました。
『スター誕生』出身の花の中三トリオ(山口百恵・森昌子・桜田淳子)が有名ですが、当初は森昌子さんと石川さゆりさんのホリプロ3人娘で売り出す予定でした。
ところが方向転換で石川さゆりさんは演歌へ進み、後に桜田淳子さんとの3人で花の中三トリオと呼ばれるようになりました。
1973年に14歳で『としごろ』デビューしていますがオリコンでも32位とあまりパッとしませんでした。
山口百恵さんはアイドルとしてはどことなく影がありアイドルの雰囲気に似つかわしくない評価もあり、そんなに売れないだろうと事務所や周囲からの評価は高くなかったそうです。
ところが、2枚目の『青い果実』で週間オリコン9位と徐々に波に乗り始めて、5枚目の『ひと夏の経験』でレコード大賞大衆賞を獲得や紅白初出場を果たすなど、不安とは裏腹に一気にブレイクしていきます。アイドルとしては中々の歌詞を歌っていて、少し違う路線で売れて行きました。
今の時代なら公にならないだろう生い立ちを含めて、ホント昭和の歌姫だと思う。
— コアラッコ🐨9.22 (@akoarabb) 2017年4月29日
睡眠時間が毎日2、3時間でしたがちゃんと高校にも通っていたそうです。学校が終わって制服姿のまま、テレビやレッスンなどお仕事の日々でした。
レコード大賞は獲得ならず|因縁の阿久悠に阻まれ続けた
山口百恵さんは紅白歌合戦には1974年(第25回)〜1979年(第30回)まで出場しています。しかし意外なことに日本レコード大賞の中でも大賞は受賞していません。
1976年『横須賀ストーリー』で作詞賞受賞(作詞は阿木燿子)
この年のレコード大賞(第18回)は都はるみ『北の宿から』
1977年『秋桜』で歌唱賞受賞。
この年のレコード大賞(第19回)は沢田研二『勝手にしやがれ』
1978年『プレイバックPart2』で金賞受賞
この年のレコード大賞(第20回)はピンク・レディー『UFO』
笑ってる姿が可愛すぎる山口百恵さん。
笑うって最高の武器。 pic.twitter.com/tuDUDS5POs
— 角 真里奈 (@sumiuneji) 2019年1月31日
山口百恵さんも大賞を受賞すると思われていましたが、結局最後までレコード大賞は獲れず。その代わりレコード大賞を受賞していたのは 奇しくも阿久悠氏が作詞した楽曲たちだったのです。
1980年山口百恵さんが引退した直後の第22回レコード大賞では特別大衆賞を受賞していますが、この年のレコード大賞も阿久悠氏が作詞の八代亜紀『雨の慕情』でした。
レコード大賞を受賞するには若すぎる年齢だったのでしょうか?十分に大賞を獲得しても良いと感じた方も多かったですが、一体山口百恵さんはどういう気持ちだったのでしょうか。
引退から結婚へ…自分の生い立ちとの決別
そして人気は最高潮のままにグリコのCMで初共演だった三浦友和さんとの交際、引退を宣言し。表舞台からは姿を消しました。
今なお山口百恵さんは伝説的なアイドルとして世間では常に名前を聞く存在です。世間から注目を集める宿命を背負うために生まれてきたといっても過言ではないように思えます。
山口百恵さんの楽曲をカバーしたアーティストは100組を超え、楽曲もいまだにテレビでよく流れてきます。それほど7年という短い間にインパクトを残した歌手だったということです。
山口百恵さん自身も色々な想いが凝縮された7年間だったのではないでしょうか?
それまでのキャリアを捨てて引退を21歳で決意できる凄さや意志の強さ。
女性としての肝の強さが引退から44年もの間、三浦友和さんを支えられたことに繋がったのではないでしょうか。
三浦友和さんを旦那に選んだのも、自分の生い立ちで家庭に悩まされたことで、自分の父親とは違う何かを感じ、将来生まれてくる子供達には自分の様な思いをしてほしくなかったのではないでしょうか。根本は生い立ちが関係しているのかと思わされます。
過去の生い立ちが山口百恵の憂いを醸し出した
山口百恵さんのアイドルとして醸し出す雰囲気は悲しげで、憂いや哀愁が漂いそれは生い立ちからきていたと考えられています。
たたずまいや、ミステリアスな雰囲気が人気になった理由であり、そこに生い立ちのストーリーが加わり、さらに引退の潔さ。生き様に感動するファンも多かったです。
山口百恵さんが引退したのは21歳の時ですが、21歳とは思えないほどの大人びたオーラや貫禄がありました。現在のアイドルは昔のアイドルと比べて高齢化していますが、30手前のアイドルたちよりも、どこかオーラを感じます。
当時10代の山口百恵さんが20歳も年の離れた阿久悠氏を怖がらせるほどの佇まいだったと言います。
山口百恵の生い立ちまとめ
山口百恵さんの生い立ちには父親が深くかかわっていることがわかりました。
山口百恵さんは戸籍上、愛人の子供として生まれ、父親は医者でしたが本妻の女性が別にいて援助はなく、母親がやりくりしながら経済的に苦しい生活をしていました。
不倫ですがお互い愛し合っていたそうです。もしかしたら当時は今よりも男性優位な風潮で不倫も今ほど責められることはなかったのかもしれません。
そんな家庭環境で育った山口百恵さんは中1の時にはアルバイト、中2で芸能界入り。高校生になって自分が認知された子供だと知ります。
世間の方が言われるように生い立ちが複雑にもかかわらず、まっすぐに育っていることは凄いですね。自分の芯をうまれながらにしっかりと持った女性だったのでしょう。
芸能界では当初それほどの期待をされていたわけではなく、作詞家の阿久悠氏にオーディションで歌は諦めた方いいといわれながらも、頭角を現しますが、日本レコード大賞を阿久悠氏の曲にことごとく阻止され、そのまま引退となりました。
44年が過ぎ、現在は三浦友和さんとの仲の良さやキルト作家として活動が目立っています。そして、息子が芸能界で名前が売れつつあります。
過去の生い立ちは辛いものであった山口百恵さんも現在は三浦友和さんと幸せな家庭を築いているみたいです!
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